![境内入り口 境内入り口](img/keidai_img04.jpg)
![境内入り口 境内入り口](img/keidai_img21.jpg)
![本堂内 本堂内](img/keidai_img03.jpg)
![境内風景 本堂内](img/keidai_img22.jpg)
![橋和屋敷 橋和屋敷](img/keidai_img05.jpg)
![橋和屋敷 橋和屋敷](img/keidai_img23.jpg)
![庚申塔 庚申塔](img/keidai_img25.jpg)
![境内風景 境内風景](img/keidai_img24.jpg)
![お静地蔵尊由来](img/keidai_img26_01.jpg)
この石仏像は、徳川二代将軍秀忠公の側室 お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉り、その素願かない慶長16年(1611)に男子「幸松麿」が授かります。その後、秀忠公正室、浅井崇源院の威勢をを畏れながらもその恙ないご成育を祈り3体の地蔵を刻み納められます。そして再び願いが叶い、また家康公の側室見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり、元服後、保科正之公となります。
元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩のみちすがら、当山に参拝され、瞬興和尚(中興第15世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永8年、正之公は信州高遠城主となります。お静は、大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。
正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津藩二十三万石の城主となり、会津松平家の祖なります。また家光公の命により四代将軍家綱公の後見人として、幕政に力を注ぎ、善政を施されました。
お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育て・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。
元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩のみちすがら、当山に参拝され、瞬興和尚(中興第15世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永8年、正之公は信州高遠城主となります。お静は、大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。
正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津藩二十三万石の城主となり、会津松平家の祖なります。また家光公の命により四代将軍家綱公の後見人として、幕政に力を注ぎ、善政を施されました。
お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育て・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。
![お静地蔵尊 お静地蔵尊](img/keidai_img27.jpg)
![お静地蔵尊 お静地蔵尊](img/keidai_img28.jpg)
![お静地蔵尊由来](img/keidai_img26.jpg)
家光公が当山を再興された折、江戸の火防の為とて、 徳川発祥の地にゆかり
の遠州の秋葉大権現を移し勧請し併祀されたもので、現在、ご分身十数体を有し、 羽田、 大森、目黒などの各区に亘る多数の講社によって信仰されています。
![お静地蔵尊 お静地蔵尊](img/keidai_img29.jpg)
![櫻 櫻](img/keidai_img30.jpg)
![櫻 櫻](img/keidai_img33.jpg)
![枝垂れ櫻 枝垂れ櫻](img/keidai_img31.jpg)
![枝垂れ梅 枝垂れ梅](img/keidai_img34.jpg)
![ダミー ダミー](img/keidai_img32.jpg)
![ダミー ダミー](img/keidai_img35.jpg)